「ねぇ、あなたはどこに向かって歩いているの?」
「僕が行きたい所だよ」

「それはどこにあるの?」
「この箱庭の果て、そう最果てにあるんだ」

「箱庭だなんて!バカみたい!最果てなんてあるものですか」
「まるで世界の全てを見てきたような口ぶりだね」

「この世界が箱庭だなんて!」
「ああ、君。羊の数を数えるだけじゃ、いい夢は見れないんだよ」


2014-03-23

「しきい値」を下げた話

自分の中にある合格点の低さ、と言い換えてもいい。

頭の中にあって、それも具体的にあって、ああこれはアウトプットしようかなって考えるんだけど、でもなぁ・・・どうせやるんだったらちゃんとしないと格好つかないよなぁ・・・やったとして、これ見た人がどう思うかなぁ・・・って思ってしまう。もうちょっといい評価がもらえるようになってから出そう。で、やらない。そう考えてやってこなかった。

もう何年も前に近代美術の展覧会で衝撃的な作品を見た。鉛筆でサインされた古い木箱。それが厳重なガラスケースに入れられて展示されている。え、これ、作品か?でも有名な作品のようだった。価値があるらしい。世界的に評価されているようだ。作品の素晴らしさは全く理解出来なかったが、衝撃は受けた。

そして数年前。神戸のアートイベントで展示されていた作品にも同じような衝撃を受けた。1センチ位の大きさにカットされた木片。それが作品としてネームプレートを付けて展示されていた。作品名は「木片」。そのままやないか!やはり衝撃だった。

木箱にしても木片にしても、作り手にとっては最高の作品だったんだろう。何かイメージしていたものが完全に表現出来た。もう同じものは作れない。きっとやりきったのだろう。そして彼らは評価を一切気にしていない。自分の物差しで考えている。自分こそがが基準なのだ。評価はされた方がいい。でも「100%の評価」を求めていたらいつまでたってもアウトプットできない。だから「しきい値」を下げる。

まだ見ぬ評価のことは一旦忘れて自分がやりたいことをアウトプットしていこう。

そう、木箱と木片が教えてくれたのだった。

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