「ねぇ、あなたはどこに向かって歩いているの?」
「僕が行きたい所だよ」

「それはどこにあるの?」
「この箱庭の果て、そう最果てにあるんだ」

「箱庭だなんて!バカみたい!最果てなんてあるものですか」
「まるで世界の全てを見てきたような口ぶりだね」

「この世界が箱庭だなんて!」
「ああ、君。羊の数を数えるだけじゃ、いい夢は見れないんだよ」


2018-12-02

表現活動を再起動する

2年もここをほったらかしにしていた。

気分的には廃墟になりつつある古屋に戻ってきて、どうしていいかわからずボサーっとしているかのようだ。
自主的にクリエイティブなことをあまり積極的にしてこなかった。ビジネスの方が必死になっていた。文学フリマにも出店していたが、新刊を作ることもなかった。創作をしたいと思いながらも、その優先順位はぐっと下がっていた。

この数ヶ月、「自己を発信する」ということについて考え続けている。

自分の考えていること、日常にあった出来事、ふと頭によみがえった思い出、世の中に対してぶちまけたい不満。そんな腹の中に詰まっていたり、脳みその隙間にこびりついている由無し事を開陳していく「行為そのもの」について考え続けている。
特にこういったブログを始め、SNSやらウェブコンテンツにおいての日記やコラム、エッセー、書評などなど。ビジネスやライフハックなど、情報として価値があるものは誰かの役に立つであろうが、昨日コンビニで買い物したらレシートが777円だったことに何の意味があるというのか。100歩譲って、その嬉しさを誰かと共有したい気持ちはわかるが、自分自身がそれをしていこうと考えると、うーんと唸ってしまう。これまでもブログを書き倒して、SNSを使い倒してきたから偉そうなことは言えないのだが、今に来てどうにもモヤモヤしているのだ。


なんて不毛なんだ、考えている暇があるならさつさと行動を起こし給えよと諸兄姉は言うであろうが、僕は考える前に行動を起こす気質を持ち合わせていないのだ。考えが腑に落ちてようやくそろりと行動を起こすし、起こしてきたし、これからもそうなんだろう。

自分は何を発信していくのか。・・・いや、発信ではなく、きっと表現なのだ。自分は何を表現していくのか。その表現は発信しようがしまいがどうでも良い。誰かに読んでもらいたい、見てもらいたい、聴いてもらいたいとなれば発信すれば良い。目的を間違えてはいけない。

発信そのものが目的になってはいけない。何をどう表現するかこそが目的なのだ。さて、改めて表現を始めていこう。