「ねぇ、あなたはどこに向かって歩いているの?」
「僕が行きたい所だよ」

「それはどこにあるの?」
「この箱庭の果て、そう最果てにあるんだ」

「箱庭だなんて!バカみたい!最果てなんてあるものですか」
「まるで世界の全てを見てきたような口ぶりだね」

「この世界が箱庭だなんて!」
「ああ、君。羊の数を数えるだけじゃ、いい夢は見れないんだよ」


2019-05-06

液体肥料

「ちょっと水やってくるわ」と、中学2年生になる息子が水を入れたペットボトルを手にベランダへ出て行った。キッチンテーブルで仕事の原稿を書いていた僕は手を止めてベランダを覗き込んだ。狭いベランダにいつの間にか小さくて可愛い鉢植えが置いてあった。何やら緑色の葉っぱがちょろんと伸びている。「何それ?大麻?」と声をかけると、彼は笑いながら「違うわ!カブや、カブ。理科の宿題で観察せなあかんねん」と返し、水をチョロチョロと鉢に注いだ。

こういう観察って中学生もやるもんなのか、小学生までと違うのだな。そう独りごちた僕は、彼が明らかに水ではない液体が入った、もう1本のペットボトルを手にしたのに気がついた。なんだあれ?その液体は青色か緑色のようで、午後の光を浴びてなんとも言えない美しい輝きを発していた。「何なん?それ」「ああ、これな、液体肥料。学校でもらってん」

・・・そうか、そんな時代なのか。そらカブもすくすくと育つやろうな。僕が子供の頃は水だけだった。液体肥料なんて言葉も知らなかった。夏休みの宿題で植物の観察をするのも大変で、まずはしっかり育てることに必死だった。小学生だったあの夏も、僕は「ひまわり」が思うように育たないことに悩んでいた。

当時、僕の家族が暮らしていたマンションには共同の屋上があった。とても広い屋上で、住人は植物を育てたり、洗濯物や布団を干したり自由に使っていた。天気のいい日に飼い犬を洗ったりしたこともあった。この屋上で僕は夏休みの宿題であった「ひまわりの観察」をするために、一生懸命ひまわりに水をやっていた。

しかし、僕のひまわりはとてもか細く、高さもない「弱っちい」ひまわりだった。少し離れたスペースで、同級生の浅井くんも同じようにひまわりを育てていたのだが、このひまわりはなんとも見事なひまわりだった、大人の親指よりも太い茎に青々とした葉を広げ、高さは見上げるばかり。花は燦々と輝く太陽のように立派だった。僕は浅井くんのひまわりを見るたびに、完全に負けた気がしていた。それは小学生でありながらも、男として負けたような気分でもあった。

彼のひまわりを横目に小さくため息をつきながらひまわりに水をやっていると、浅井くんも屋上にやってきた。花も咲き、これから種を収穫する段階であったが、僕はずっと気になっていたことを、負けを認めて聞いてみた。「どうやったらそんなデカくひまわり育つん?」と。浅井くんは「そんなんもっと早く聞いてくれたら教えてあげたのにー!これやでー!」と笑いながら、半ズボンと白いブリーフを膝までずり下げ、鉢植えのひまわりに向かって勢いよく放尿した。夏の太陽を反射しながら弧を描くそれは、乾いた鉢植えの土に吸い込まれていった。

その瞬間、浅井くんのひまわりは、グッと背筋を伸ばしたかのように、少し大きくなったように見えた。

夏休みが終わった2学期のある日、大量に収穫されたひまわりの種をクラスの中で得意げに食べる浅井くんを、僕はなんだか複雑な気持ちで眺めていた。

浅井くんが自前の液体肥料を使っていたことを、僕は誰にも話さなかった。おすそ分けでもらった種は、食べないで捨てた。


【〜現実と虚構の間を歩く〜 37+c 】